偶然性の一致と神話的世界

児玉教育研究所 大橋 幹夫

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1.「偶然性の一致」現象の体験

 

快適な部屋でパソコンに向かい,DVDからの音楽を聴きながら,現代のハイテク社会の恩恵を目一杯享受しているこうした私たちの世界でも,時にまったく考えられないような不思議な現象に遭遇して驚くことがある。

 

先日,ある専門用語を調べる必要があって,年賀状の交換以外に10年以上も連絡していなかった友人に電話した時のことである。あいにく話し中だったので,しばらくしてまたダイヤルしたところ,ちょうどその時彼も,他の用件で私に電話をして話し中だったとのことである。他にも最近体験した不思議なことといえば,この広い東京の中の全然関係のない別々の場所で,同じ友人にたて続けて3回も会ったこと,また私自身は経験していないが,肉親の不吉な夢を見たその夜あるいはその前後にその人が亡くなったといういわゆる予知夢の話は,今までにも何度か聞いたことがある。

 

茶の間の話題としては,娯楽番組の五択ゲーム。以前電波少年というTV番組の中で,5枚のカードの中で1枚の当たりカードを引くと,食事にありつけるというのがあった。慣れてくると当たる確率が高くなり,中にはすべて当たる人も出てくるのがどうしても不思議であった。同様に見えないモノを当てる昔からの透視術なども考えてみれば神秘的不可思議な事象である。

 

身近な体験でなくても,こうした不思議な現象は,周知の歴史的伝説や神話的物語の中にも数多くの例がある。例えばキリスト教では,新旧聖書を通して見られる多くの預言者の予言や,イエスが人々に見せた数々の奇蹟などは,数え上げたらきりがないほどである。仏教でも,釈尊の悟りの内容(三智または三明)は,前世の追体験と未来の予知体験といわれている。

 

キリスト教徒に限らずユダヤ,イスラム教徒にも共通な旧約聖書のこうした内容は,教徒にはさして疑問もなく信じられているわけだし,私たちにしても釈尊が仏陀になったことを前提として仏教徒であると考えている。ということは,世界中の大多数の人は,自然科学では合理的に説明できないような時間や空間の連続性を超えた「偶然の一致」現象について,直接的ではないにせよ無意識の中で何となくは認めているということだと思う。それでも人により,集団によっては強弱の度合いがあるので,それらの考え方を次のように整理してみた。

 


2.「偶然性の一致」現象の考え方

 

「偶然性の一致」現象については,大別して次の5つの考え方があると思う。1つには,「単なる偶然との見方」である。世の中には因果関係で説明できないものはないとする,いわゆる近代啓蒙主義者の考え方である。不思議に思えるすべての現象は,現時点では未解決なだけで科学の進歩によっていずれ解明できると考える人たちであり,科学万能主義,唯物論的無神論者の多くがこうした立場である。

 

次に,こうした科学的考え方ではなくて,偶然性を否定する哲学的な別の見方がある。過去や未来に関わる偶然的現象を,現在の時間を基準としたコンテクストの中で認識する実存主義的考え方(例えばハイデガーの存在と時間)である。一見偶然と思われる過去に関わる現象は,忘却した時間が現在の時間によって意味づけられて再構成されたにすぎないと説明される。同様に未来の偶然的現象についても,現在の時間が未来に向かって投企した必然的延長として捉えているのである。

 

いずれにせよ,偶然性を還元的に説明しようとするこれらのタイプは,非合理的な宗教や神秘主義に対して極端なアレルギーをもつ現代の日本人には,けっこう同調者が多いのではないかと思われる。

 

3番目は,還元的に説明できない偶然的な出来事は,すべて「神の所業」として科学的,哲学的考察から切り離してしまう見方がある。つまり学問的に解明できないものは,すべて全知全能の神のせいにする立場である。キリスト教などの一神教を信じる多くの人たちの考え方がまさにそれである。彼等には聖書に書かれている奇蹟なども神の領域のことで,当然のこととして検証されずに受け入れられている。しかしある意味では,合理性が問われない神の領域を規定することにより,人間の領域では,集中して高度に合理的な自然科学的思考を発達させたとも言える。

 

4番目には,「この世では何あっても不思議はないとの見方」がある。人間と神の領域の境がはっきりしない汎神論的な宗教をもつ人々の考え方で,具体的には未開社会のアニミズム,現在でも仏教,ヒンズー教,神道などの多神教に見られる見方である。ここでは,日常の世界で神と人間が共存しているので,当然のこととして,両者の領域を仕切る境が不明確なため,「偶然性と運命」といった命題はさして重要なこととして取り上げられなかったと考えられる。またこのことは同時に,合理性を追求する科学分野の発達が遅れる原因になったのかもしれない。

 

最後の5番目として,前述の3でも4でもなく神自体は認めるが「神の存在と所業も,人間の経験科学の対象とし,相対化してしまう考え方」がある。ここでは,一神教の創造神のように神を人間から離して絶対化することをせず,そうかと言って多神教の神のように神と人間が共存してその境が曖昧になっているわけではない関係,つまり神と人間(の心)を一定の距離で対等なポジションに据えて見ていく見方である。神も人間の心の働きも,同じく心的事実あるいは経験的事実として経験科学の対象になるのである。神を絶対化せず,相対的存在とする見方で,こうした考えに立つのがユング思想あるいはユング心理学で,その延長にユングの「共時性」の概念があると言えると思う。

 

なお,こうしたユングの<神の相対化>の考え方は,旧約聖書の時代から現代に至る,神と人間との壮大なドラマを書き上げたユングの著書『ヨブへの答え』にたいへんよく表れているので,その要約を本文の末尾に註掲したので参考にされたい。

 


3.ユング心理学の「共時性」の考え方

 

改めてユングの「共時性」とは,林道義氏の定義によれば,非因果的関連の現象に関する<意味のある偶然性の一致>ということになる。つまり,通常では一致することが確率論的にはほとんどありえない2つ以上の出来事が,たまたま一致した時,それを経験した人がその一致には何か意味があるに違いないと感じる時,その一致を共時性(シンクロニシティ)と言っているようである。それでは,実際にその共時性の内容あるいは仕組みについて,以下考えてみたい。

 

(1)まず,人間は大宇宙の自然に含まれていると同時に,自ら小宇宙として大宇宙と対応していると考える。つまり西欧の神秘主義思想などに見られる,いわゆる二世界主義的世界観を前提にしている。

 

(2)2つの世界が接している部分は,人間の五感=意識と,五感で捉えられる範囲の既知の外界あるいは自然からなる。ここでは時間・空間が連続していて,因果関係で結ばれる科学的合理的な日常世界であり,私たちの通常の社会生活・活動はほとんどこの部分で行われている。

 

(3)小宇宙である人間側の意識の奥には,幼児期以降忘れられている記憶などが無意識(個人的無意識)となっているほか,先祖・民族・人類などの先験的な記憶が無意識に埋もれていると考える。その最も奥にある人類に共通な心の働きをする根源的な無意識を,ユングは集合的無意識=元型的,神話的世界と言っているのである。これはキリスト教神秘主義学者(エックハルト)のいう「内なる神」にも共通するものがあると思う。この集合的無意識は,夢や妄想ならびに神秘体験の際に,イメージとして実感することができるが,イメージだから当然のこととして過去・現在・未来といった時間の繋がりや,遠近の空間の制約は取り払われた形で現れる。

 

(4)同様に大宇宙である自然の側も,目に見える日常の世界の裏あるいは奥には,人間の意識では捉えられない,時・空間の連続性がない世界が広がっていると考える。ここは従来の物理学の法則が通用しない世界,宇宙生命=神話的世界である。言い換えれば,大宇宙の超自然現象の世界であり,宗教的観点からは神あるいは神的存在が経綸する世界とも言えると思う。物理学者の中には,エネルギー・質量の等価,光等速といった理論物理学の常識に対し,量子力学等といった新しい概念でこの神話的世界を説明しようとする試みが出てきているようである。

 

(5)しかし,人間の意識と自然の表面が接している合理的,科学的な日常世界のどこかある時,何らかのきっかけで綻びあるいは亀裂が生じて,通常では決して出会うことのない,時・空間フリーの2つの神話的世界(心の元型的世界と量子力学的世界)の間に直接回線が引かれた時,一時的にでも人間と自然の間に,時空間を飛び越えた共時的現象が起っても不思議ではないように思う。そこは大宇宙の神と,小宇宙である人間の内なる神との,あるいは人間のこころ(元型)と物理学の領域との,かりそめの幻想的な出合いの場所かもしれない。いずれにせよ,このようにして起こる現象あるいは考え方を,ユングは共時性=シンクロニシティと言っているのだと思っている。

 

 

[註掲] 文中<神の相対化>についての参考資料として,ユングの著書『ヨブへの答え』(みすず書房,林道義訳)の要約を次に紹介する。

 


1.旧約聖書「ヨブ記」(追補前の原文)のあらすじ

ヨブは敬虔な信仰をもち,悪いことは何一つしなかった義人として登場する。ところが神ヤーヴェはサタン(神の子)に唆されヨブの信仰心を試そうとして,彼の家族の死や財産の没収などあらゆる不幸を与え,最後は堪えがたい皮膚病にして苦しめることになる。ヨブはついに「私は清く正しく生きてきたのになぜこんなに苦しまなければならないのか」と神にはじめて文句を言った。それを聞いて現れた神は,自分の力を誇示してヨブを威嚇するだけで,ヨブの正当な問いにはまったく答えなかった。それを見て,ヨブは口に手を当てて何も言わなかった,というところで原文は終わっている(それではあまりにひどいと思ったのか,後の編集者が入れた追補文では,ヤーヴェがヨブに現状回復したことになっている)。

 


2.ユングの解釈

(1)まず,試さなければヨブの信仰心が分からないということは,神が全知全能ではないことの証拠だと考えた。またヨブの正当な問いに答えられないことは,神が自ら正義ではないことを示しているとした。確かに,旧約聖書全体から見ても神ヤーヴェは人間を殺したり(ノアの箱舟),町を焼いたり(バベルの塔)ずいぶん残酷なことをしている。ユングは,これは神が,無意識あるいは自然現象と同じ性質と考えたのである。それに対して善良で義人のヨブの言動は,まさしく意識の立場にあるとした。つまり神は無意識的存在,人間は意識的存在という仮説に立ってヨブ記を理解しようとしたのである。

 

(2)この神と人間との関係は,苦難のバビロン捕囚時代に神が何ら救済しなかった体験から,ユダヤ人が今まで抱いていた全知全能の神イメージにも変化が現れ,同時に神自身も人間が離反しないように,かつてヨブに対したような無茶な無意識的,自然現象的存在から,善意と倫理を取り入れた意識的存在にしだいに変容してきたと考えられるのである(旧約聖書外伝など)。

 

(3)その後,善悪両義性の神ヤーヴェは,(無意識的)悪の部分を自らの分身であるサタンに負わせ,(意識的)善の部分を同じく分身であるイエスに託し,自分自身を,神と神の子イエスおよび精霊の三位一体の考え方によって,畏敬の神イメージを,愛と善の神イメージに決定的に転換させたのである。従ってイエスの出現は,(神学的な解釈は別として)闇と光と影の全体を併せもつ(集合的)無意識の神が,闇と影を切り捨て,光の部分だけを残し意識的な人間になったこと,正義と善を判断できる完全性の神,キリストの誕生となったとの解釈である。

 

(4)ユングの著書のストーリーでは,その後20世紀(1950)になって,ローマ・カトリック教会が,民間信仰ではすでに神の地位にあった聖母マリアを,被昇天により神と同列と認めたことを,人間が神になり得ることを示したことの証明と考えた。これによりやっと神と人間との和解が成立し,神はいままで理解できなかった人間の苦しみを知り,かつてのヨブへの仕打ちを反省したという結末になっている。ユングの著書『ヨブへの答え』は,こうした神と人間との壮大なドラマを通して,ユング心理学の真髄である「意識化による個性化」「無意識と意識の統合」のモデルを示唆したとも言えるもので,ユングの代表的著作の1つとなっている。

 

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